【第一部:境界線の向こうへ】
その夜、私は残業をしていた。
蛍光灯の半分が落とされたフロアは、まるで水底のように静かで、コピー機のかすかな唸りだけが空気を震わせていた。キーボードの音も、紙のめくれる音も、すべてが眠りのなかで生きているような、不思議な感覚だった。
「遅くまでご苦労さん」
後ろから声をかけられ、振り返るとそこには笠原課長がいた。
グレーのシャツの袖をまくり、ネクタイを少し緩めたその姿は、普段よりも幾分くだけて見えた。45歳、私より一回り年上。上司であり、厳しいながらも公私の線引きを絶対に崩さない、そう思っていた。
「まだ終わらないのか?」
彼は私の隣に腰を下ろし、机の上の資料に目を落とす。距離が近い。紙の匂いに混じって、彼の香水の残り香が鼻をかすめた。
「はい、あと少し……」
視線を逸らしながらそう答えたのに、ふと、手が重なった。
コーヒーを取ろうとしただけ。偶然のはずだった。 でも、そのまま、彼の指が私の甲に残った。
「……寒くないか?」
言いながら、彼は自分のジャケットを肩に掛けてきた。 その瞬間、背中に重みと温もりが落ちてくる。 理性よりも先に、身体が反応していた。
そのまま、彼の掌が、私の腿の上に置かれた。 ピクリと震えた私の脚を、彼は何も言わずにゆっくり撫でた。
「……やめた方がいいのに」
震える声で言った私に、彼は微笑んだ。
「わかってる。でも、止められるか?」
その一言が、すべての堤防を壊した。
ソファに押し倒される。ネイルが引っかかるようにブラウスのボタンが弾け、ストッキング越しの腿を大きな手がなぞる。彼の視線が、私の下腹部に落ちる瞬間、羞恥と興奮が入り混じって体温が急上昇した。
「こんなところで……」
囁きながらも、身体はもう逃げる準備などしていなかった。
【第二部:愛撫という名の罪】
その夜、私は快楽のなかに沈んだ。
会議室の鍵は、かけていない。誰が入ってきてもおかしくない。 なのに、それが、たまらなかった。
笠原課長は、まるで壊れものを扱うように、ゆっくりと私の身体に口づけを落としていく。 鎖骨、乳房の谷間、へその周り。
ブラウスの下で晒されたレース越しの乳首を舌で転がしながら、彼は低く息を漏らす。
「……柔らかい。ずっと、こうしたかった」
その一言に、思わず脚が震えた。
スカートを太腿までまくり上げ、ショーツの上から彼の指が撫でる。 布越しの感覚すら、すでに熱く湿っていた。
指先がゆっくりとショーツの中へ入ってきたとき、私は思わず声を上げそうになり、唇を噛んだ。 けれど、彼の指が奥へと沈んでいくたびに、抑えようとしていた理性が崩れていく。
「もっと声を聞かせて」
彼は私の耳元でそう囁くと、私の中をなぞるように指を動かし続けた。 快楽の波が全身を貫き、私は彼の肩にしがみつく。
いつしか指は舌に変わり、ぬめるような温度と動きに私は完全に身を委ねた。
彼が私を見上げながら舌を這わせるたび、全身が火照り、視界が白く染まっていく。
何度も、何度も果てる私を、彼は優しく抱きしめた。
そして、静かに囁く。
「壊れてもいいよ。俺が全部、責任を取るから」
その言葉が、あまりにも優しくて――私の最後の抵抗を、静かに溶かしていった。
【第三部:沈黙の余韻】
明け方近く。
気がつけば私は、会議室のソファに彼と並んで座っていた。 薄明かりの差す窓の外では、誰かの出勤する足音が聞こえてくる。
私は乱れたスカートの裾を直しながら、隣の彼の横顔を盗み見た。
「ねえ……私たち、どうなるんでしょうね」
そう呟いた私に、彼は静かに笑った。
「どうにもならないよ。これは、壊すための関係だから」
突き放すような言葉なのに、なぜか胸が熱くなった。
壊されたいと思った。 すべてを投げ出して、この人に抱かれていたいと思った。
彼の手が、そっと私の指を握る。 その温もりだけが、虚無ではない何かを教えてくれた。
「また来週、残業するか?」
冗談のように言ったその一言に、私はそっと頷いた。
まだ、足りない。 まだ、もっと――この罪を、味わっていたい。
快楽の向こうにあるのは、救いではなく、溺れるような深い沈黙。 それでも私は、もう引き返す気などなかった。
……こんなに壊れたいと願ったのは、初めてだった。
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