【第一章:静寂のなかの空洞】
私は今年、三十になる。
結婚して、もうすぐ二年。きっかけは、見合いだった。
遊び疲れたような二十代の後半、周囲の“結婚まだ?”の声が重くて、親の紹介を受け入れた。
夫は穏やかで優しく、経済的にも申し分ない。けれど――彼の手が私を愛しむことは、ほとんどなかった。
毎月ある出張。決まって月に二度、二泊三日。
彼は駅の改札を通るとき、必ず振り返らずに行ってしまう。私も、もう追いかけるような視線を向けることはない。
女としての私が、このまま枯れていくのだとしたら。
それは、それでいい――そんな諦めに似た感情に、気づかないふりをしていた。
その日は、週末の金曜日だった。
友人とランチの約束があり、駅前のファミレスで待ち合わせていた。
いつものように主婦同士のとりとめのない会話をし、笑い、デザートを食べ終えた頃だった。
隣のテーブルにいたのは、大学生らしき男の子たち。無邪気に笑いながらこちらの話に耳を傾けていた彼らの視線が、ふと私に留まった。
「お姉さんたち、めっちゃ綺麗。女優かと思ったよ」
そんな軽口に、思わず笑ってしまった。
けれどその視線の熱だけは、冗談ではなかった。とくに、一人――蓮(れん)と名乗ったその青年の眼差しには、どこか剥き出しの欲望と敬意が同居していた。
「映画、観に来ません? 僕の家、ホームシアターあるんですよ。デカいスクリーンで観ると全然違います」
冗談半分の誘いだったのだろう。
けれどそのとき、私は――少しだけ、羽目を外したくなったのだ。
そして私は、友人にだけ「ちょっと寄り道して帰るね」とだけ告げて、彼の部屋へと足を踏み入れた。
【第二章:無音の中で脈打つもの】
薄暗い照明、天井から吊られたスピーカー、壁いっぱいのスクリーン。
まるで映画館のようなその空間に、私は息をのんだ。
「緊張してる?」
そう言って蓮くんが、私の隣に座る。
二人きりの空間。クッションの沈みが、彼との距離をじわじわと縮めていく。
選ばれた映画は、どこか切ない恋愛映画だった。
甘い旋律と、美しくももどかしい男女の駆け引き。
けれど、途中から映し出されたのは、互いの肌を求めあうシーン。
私は、喉が渇いていた。
なのに、水を飲む気になれなかった。
蓮くんの手が、ふいに私の指先に触れたとき、ビクッと小さく肩が揺れた。
「冷たい…ですね」
囁くようにそう言いながら、彼は私の手を取った。
それが、始まりだった。
手の甲に口づけを落とし、静かに頬へ、耳元へ。
ぞわぞわと走る熱いもの。
「やめなきゃ」――その言葉は、胸の内でしか響かず、口からは出なかった。
気づけば私は、蓮くんの膝の上に乗っていた。
シャツのボタンがひとつ、またひとつ外され、下着の上からそっと撫でられた胸が、熱に包まれていく。
「もう…濡れてますよね」
そう囁いた彼の声に、私は顔を背けた。
でも身体は、もう拒んではいなかった。
スカートの奥、濡れた布地越しに彼の指先が触れた瞬間、思わず小さく喘いでしまった。
その声に、彼は深く口づけをしてきた。
そして――私は、堕ちていった。
衣服は剥がされるというより、優しく脱がされていった。
指が、舌が、私の隅々までをなぞるように巡り、快楽の波が静かに打ち寄せては返す。
ベッドの上で、私は少女のように震えながら、自分の声が誰のものかわからなくなるほどに乱れていた。
【第三章:濡れた静寂のあとで】
彼の身体の奥に受け止められながら、私は何度も何度も果てた。
最後は、自分で腰を揺らしていた。
求めるように、貪るように。
息が重なり、肌が汗に濡れ、何度も名を呼びながら、私は――解けていった。
「また、抱いて……」
自分の口から漏れたその言葉に、自分で驚いた。
でも、そのときの私は、ただ“女”だった。
夫でもなく、生活でもなく、ただ、私というひとりの女が、快楽のなかで確かに息をしていた。
すべてが終わったあと、私は彼の胸に顔を埋め、静かに呼吸を整えた。
遠くで、映画のエンドロールが流れていた。
あれは、どんな物語だったのだろう。私はもう、何一つ覚えていなかった。
「また、来てくれますか」
蓮くんがそう言ったとき、私は何も言わずに微笑んだ。
応えることも、拒むこともできなかった。
ただ、あの午後の記憶は、私の中に深く焼き付いたままだ。
獣のような快楽だったかもしれない。
けれど私はそのなかで、初めて“赦された”気がしていた。
抱かれ、泣き、そして笑ったあの午後――。
女としての私が、もう一度、呼吸を始めた瞬間だった。
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