伊豆半島の先端、下田の海が見える崖沿いの宿。
潮の香りと山の気配が混ざりあうこの地は、静岡のなかでもどこか物悲しく、そしてやさしい。
東京から新幹線と特急を乗り継いで、ようやくたどり着く距離感もいい。
非日常の入り口は、駅前でふたり並んで食べた金目鯛の煮付け定食から始まった。
「おいしいね」
そう言った彼の顔を見て、私は胸の奥で、何かがほどけていくのを感じていた。
彼──Tさんは、元上司。
30代後半で、家庭があり、奥さまもお子さんもいる。
それでも、私は彼をずっと見てきた。
会議のあとのふとした仕草、目の奥に宿る疲れの色。
私にだけ向けられた笑みを、私は勘違いだと何度も否定しながら、それでも求めていた。
きっかけは、ふたりきりで飲みに行った、ある秋の夜。
グラス越しの視線が交差したとき、世界が音を立ててズレた。
あれから二年。
月に数回だけ重ねる身体と、誰にも話せない関係。
けれど今日、ついに「ふたりきりの旅」に来てしまった。
チェックインを終えた宿は、海に突き出すように建つ全室露天風呂つきの離れ。
雨をはらんだ風が軒下を鳴らし、遠くの空では稲光が走っていた。
「天気、ギリギリだったね」
Tさんが言う。
その横顔を見て、私は無言で頷く。
──この旅が終わったあと、きっと私はもっと彼を好きになってしまう。
浴衣に着替え、手をつないで貸切露天風呂へと向かう道すがら、濡れた石畳に風情を感じてしまう自分がいた。
罪の旅だと分かっていても、それでも、嬉しかった。
湯気にけぶる岩風呂は、崖の端にあり、すぐ下には黒潮がぶつかる岩礁。
その音が、心臓の鼓動と重なって聞こえる。
私は先に湯に入る。
肩まで沈めると、台風前のざわめく空が、波打つ湯面に映っていた。
「ずっと楽しみにしてたよ」
彼の声が後ろから落ちてくる。
ふと振り返ると、裸のまま湯につかるTさんの身体があった。
たくましく、でもどこか脆そうな肩。
その胸元に、私はそっと身を寄せた。
湯の中で視線が交差するたびに、身体が疼いていく。
彼の手がゆっくりと私の髪を撫で、次いで肩をなぞる。
「……さっき、浴衣姿見た瞬間から、もうずっと我慢してた」
彼が囁いたその瞬間、私はそっと膝をついた。
「じゃあ、ほどいてあげる……私の口で」
彼の脚の間に身体を沈め、私は唇をそっとあてた。
海風と湯気にまぎれて、唇の温度だけが際立っていく。
舌を使って、彼の先端をゆっくりなぞると、息を詰めるような声がもれた。
「……そんな、ゆっくり……焦らさないで」
彼の指が私の髪をやさしく引く。
そのまま根元まで、喉奥へと招き入れながら、私は彼の反応を五感で味わっていた。
口内に広がる熱。
脈打つ鼓動。
彼が私を欲しているのが、舌先から伝わってくる。
「……中で、出したい」
その声に、私は湯から上がり、タンポンを外しに行った。
戻った私は、湯縁に腰かける彼の膝の上にまたがり、身体をゆっくりと沈めていった。
「……すごい、奥まで……」
彼の声に、私の体内がきゅっと締まる。
腰をゆっくり、そして強く動かすたび、岩肌に濡れた肌が打ちつけられ、どこかで雨が強くなっていた。
「……全部、感じて」
私は彼の首に手をまわし、汗と湯気に濡れた額を重ねた。
そこから、後背位に、正常位に、そして再び騎乗位へ。
幾度となく重ねた体位の変化が、ふたりの欲望の深さを映し出していた。
クンニもあった。
湯の中、彼の舌が私の奥に触れたとき──
声を殺すのが精一杯で、私は彼の髪を握りしめ、腰を浮かせて快感の波に身を委ねた。
「……いってもいい?」
彼が最後に聞いたとき、私は微笑んで頷いた。
「私の中で、きて」
彼の動きが速まり、静かな絶頂の瞬間が訪れた。
湯の中、ひとつになった私たちは、誰にも許されない幸福のなかで、静かに抱き合っていた。
旅の帰り道、下田の駅で食べた地魚の握り。
目の前にある現実が、やけに遠く見えた。
Tさんは、黙って私の手を握った。
その手の温もりが、まだ私の身体に残っている。
私は知っている。
この恋が永遠ではないことを。
でも、ひとときでも、本当に愛されたと感じられる夜があったなら。
その記憶は、女として生きた証になる。
──波にほどけたあの夜、私は、いちばん「私」だった。
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